フィレンツェ109号の応接室に入ると、正面の壁にエッチングの絵画が飾られている。 ブリーフケースをソファの脇に置き、見覚えがある風景を眺めていると小さなノックの音。 ドアの向こうから濃紺のタイトなスーツに白のブラウス、真紅のリボンの受付嬢。 「ありがとう」とお礼を言いながら、湯飲みを差し出す彼女を見つめて尋ねた。 「この絵のフィレンツェはどこの都市でしたっけ」 「え、ええ、確かイタリア・・・かと思います」 思いがけない来客者からの問いかけに戸惑いながら顔を上げる彼女の仕草が柔らかい。 「そうだよね、イタリアだったね。スペインかイタリアかどっちかなと思って」湯飲みを出し終えた彼女に目を細めながらお礼の言葉を添えた。 「ありがとう」 相手方との打ち合せが終わり、私たち2人は玄関まで見送っていただいた。 玄関ロビーの奥にある受付の前を通ると3人の受付嬢が並んで立ち上り頭を下げている。 私は奥に立っているセミロングの彼女に笑みを送りながら目でお礼の気持ちを伝えた。 自動扉まで歩く間、背中全体に視線を感じていた。彼女たちのもてなしの空気が私の背中と膝を伸ばした。伸びている会社はホスピタリティに力を入れているのが分かる。私の事業所はどうだろう。 「フィレンツェ」がなぜ気になったのか、記憶にあったのか。 ヨーロッパにはまだ言ったことがないし、パンフレットを見た覚えもなかった。 頭の中に青い映像が浮かび、過去に読んだ本の舞台がフィレンツェだったことに気がついた。 その本は「冷静と情熱のあいだ」 Bluを辻仁成、Rossoを江國香織が書いた恋愛小説のベストセラーだった。 もっと早く思い出せば彼女と、この話題で話が進んだはずだ。 次の朝、新聞を見て驚いた。 夜のテレビ映画で竹野内豊とケリー・チャン主演の「冷静と情熱のあいだ」がオンエアされる。 今日読んだ本「好きな映画が君と同じだった」の中にこんな文章があった。 「恋愛には、偶然がつきものです。ふとした偶然から、恋が始まります。」 (中略) 「日常生活の中から、偶然を見つけるにはどうすればいいか。 どんなささいなことでも、意味のある偶然だと、大事にすることです。」 実は今回の打ち合わせでもう1つの偶然があった。 私が進めているプロジェクト、つまり今回の打ち合せ内容を私とM君の間では「109●●●」と読んでいる。 受付の彼女が私たちを案内した応接室の部屋番号は、「109」号室だった。 |